対立や軋轢を避ける合理性

2022-02-03 投稿

情報リテラシー

対立や軋轢は避ける理由について考える。

求職中の素人視点なので疑って読んでくれ。


今更だが、随分前に、某欧州国のサッカー選手が日本のホテル滞在中に、自室に作業に来た日本人従業員に対して、差別的な発言があったとして、問題になったことがあった。

当の発言自体は外国語だったので、本当の意味は何だったのか少なくとも俺には判断できないし、その是非はどうでも良いとして、件の選手はもちろん外国人だが、起きたのが日本国内であり、日本人対象であったという事で、その言語を嗜む?日本人たちの間で意見が分かれた。

その中でも特に、某巨大掲示板関係の著名人と、その言語の専門家の学者?の間での議論が話題となった(気がする)。

その議論の勝敗や是非もどうでも良いとして、それを面白おかしく見ていたその他大勢の一人として、妙に関心してしまった事がある。

それは、特にこの著名人の方にこの傾向が顕著と感じたが、「自分の間違いを認めず、反論している」限りにおいて、討論・議論の勝敗というのはつきにくいという事だ。繰り返すが「実際の結論・勝敗」がどうだったか俺には判断できない。まぁ大勢としてはどちらかの意見の支持が圧倒的に多いとかで、実質的に勝敗がついたのかもしれないが、俺のような第三者には、はっきりいって有耶無耶になったというのが率直な印象だ。つまりどっちも勝っていないしどっちも負けていない。はっきりとした勝者敗者を特定できない。もしかしたら議論は終わっていないのかもしれない。

つまり、言い返していれば、「明確に負け」た事にはなり難い。少なくとも「俺は負けを認めていない」という姿勢を示すことができる。「反論したのに、その後向こうから何も言ってこない」と抗弁できる。よく、「論点をずらすな」などという指摘が議論で出てくるが、議論の一面として、「反論」が良くも悪くも利用される性質があるということだ。議論技術のひとつなのかもしれない。議論に強い人とか、話術の専門家などはこういう訓練を積んでいるだろう。

そして、反論を続けていると、もう片方が「もう相手にしてられん」と再反論をやめてしまう可能性もある。すると尻すぼみになり有耶無耶になってしまう。ヘタすると最後に反論した方が勝ちとなってしまうかもしれない。

従って、議論・討論の勝ち負けというのは大変、難しい。投資家としては、結論が出て先に進まなそうなもの、堂々巡りのおそれがあるもの、に時間をかけるのは、損得を考えて避けるのが合理的となる。資産が多くなると、「思想」や「信念」よりも、「時間」や「資産規模」が影響してくるからだ。といっても俺には元々そういった堅固な思想信念があるわけではないが…

相手の言い分が通ったら直接自分に損害が及ぶ様な例外(例えば、交通事故などで双方の言い分が食い違っている時など)もあるかもしれないが、引くに引けないと裁判とかで余計な労力となるので、結局対立や軋轢は避けるようにならざるをえない(上記交通事故で言うと、どうにかして事故を避けるのが合理的となる)。

反論に関して、最近、著名な作家でもある政治家が逝去した。そして、その政治家に批判的な立場の人たちが、一斉に、平たく言うと悪口、一般的には批判とか非難とか、をネットに投稿したりして、また話題になっている。

これは上記「反論の不敗応用」の隙きを突いた?討論戦術の可能性がある。なぜなら当の本人はもう反論できないので、死後に批判している人達に「議論の負け」はないからだ。だから「卑怯なやり方」とも言えるが、逆に言うと死後の批判非難をしている方は「一種のやり得」と化している。その証拠に、一斉にその手の人たちが悪口三昧だ。

そんなに文句があるなら、病室に出向いてでも直接言えばいいのにと思ってしまうが、よく考えてみると、これだけ話題になれば、自分の考えが善悪は別として「伝播」し、広範囲に知れ渡り、宣伝効果としても悪いとはいえない(名前が売れる)。そこまで考えてやっているだろう。という事は、善悪は別として、今後もこの様な行為はどんどん蔓延ってゆくことになる。何ともギスギスした世の中だ。どうだろうか。

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