ジェンダー問題について考える。
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一般的には、このような対立が激しい、敵を作り易い問題については、大体の人がどうせあらゆる問題でほとんど素人なんだから、自分の意見を曖昧にするのが多くの場合で得策、合理的だという論旨だった。
では俺のようなパンピーでケチな投資家はそれで良いとしても、「超富裕層、大投資家、大株主」になった積りで考えると、「ジェンダー全般の問題」にどう対処するのが合理的言動だろうか。
投資家だから、基準となるのは「経済的妥当性」だ。つまり自分の考えとか、極端にいえば最近流行りの「政治的妥当性」よりも「投資先にとってどうか」というのが重要だ。「社会の理想よりもお金優先か?」と怒られるかもしれないが、善悪はともかくとして、投資家はそうなる宿命だ。途方もない大金を所有したり預かったりというのは、そういう呪縛が付いてまわるのだ。
そもそも「邪悪な運営哲学」?とか「搾取前提の経営」?というのは、結局大衆や市場に受け入れられず、失敗する。従ってお金優先の金亡者の行く先も、大体が民主的合意のある方向になるので、そんなに心配いらない。
さて、何の妥当性にしても、依然として「曖昧」でうまく?やり過ごせれば、無難なのでそれも一案だろう。
だが、もし投資先企業の経営陣が、何らかの理由によって、「特定の人達」を、たとえ能力があるとしても、採用、待遇、福利厚生、等々で平等評価していないとしたら、投資家はどう思うだろうか。
そもそも「純粋な能力や貢献度」以外で「扱い」を変えるのは多分違法だが、不正評価の証明が難しいし、「見えない天井」の様な長年の差別は無くならないし、件のジェンダー問題は最近より注目される様になったため、法整備も追いついていない場合もあるかもしれない。
もし投資先企業でそういう有形無形の、能力以外の「判断基準」がまかり通っていると「思われている」としたら、内情は違うとしても広報活動の大失敗だから、経営陣に重大責任がある。投資家はそう考える人は多いだろう。
倫理とか人道とか正義とかよりも、投資額が大きい程、自分の資産価値に響くし、あるいは人から多くのお金を預かって運用している程、投資成績への責任が大きくなるので、厳しい態度を取らざるを得ない。
また、株主や経営陣の脇の甘さによって、そのような印象を(事実はどうか別として)社会に持たれるだけでも、製品の忌避が起こるかもしれないし、何より優秀な人材の確保で競争相手に遅れを取ってしまう。企業としては致命的だ。
前述の通り、投資家というのは個々で考えの違いはあっても、全体では、投資先が法令に則っていれば、後は「投資成績の上昇」とそれに繋がる「企業業績の伸長」が「共通した唯一の正義」だ。
だから、株主、超富裕層、大資産家、等々は人材評価や福利厚生に於いて「能力」以外のいかなる基準も排除するように、少々極端でも「印象付ける」方が「経済的合理性」「投資成績合理性」がある。
もちろん、それによる様々な矛盾や運用問題も今後噴出する。トイレや浴場の管理をどうするか、どうやったとしても万人に満足で全員賛成の手法は無いが、穏健忠実に忍耐強く対応して、体裁としては少し進歩的な印象付けに徹すれば、「能力のある人材に避けられる」以上の損害は想像できない。
ここで身も蓋もない話になってしまうが、ジェンダー問題でこの思考が重要なのは、従来旧来の「性自認」に収まらない人達に「数の力」があるという事実だ。
統計は色々あるが、5%とか、10%とか、とにかく少数派にしても既に「大勢力」だ。そして今後もどうやら増える傾向の様だ。そういう人達に「従来のやり方に固執」して避けられてしまうより、歓迎してサービスや商品に馴染んてもらったり、企業経営に力になって頂いたりというのが、大株主や大投資家にとっても合理的だ。
だから、従来主義を「頑なに」主張する超保守?超富裕層や大株主がいたら、そんなヤツ今時いるかと思うかもしれないが、注意して見ていると結構いる(かもしれない)から、その人の投資先は注視するのが得策かもしれない。どうだろうか。