ジェンダー問題について考える。
一凡人 求職中の素人視点なので、真に受けずに疑って読んでくれ。
俺も議論の流れを良く理解している訳では無いが、単純に男女で分けているだけでは都合が悪い事があるから、それをどうにかしようとすると、他で不都合が出てくるといった、よくある筋道となっている。
どうも公衆トイレや温泉宿の区別がどうなるとかだけでなく、性の理念に関わる重大論争の様相だ。
「ジェンダーとは何なのか?」とか、「それに関して、一体、何が問題になっているのか?」とか、そういう主題の投稿や記事はネットに多くあるから、疑問の回答はそちらにまかせて、ここでは「超富裕層」の合理的な「ジェンダー問題」への対応?を考える。
まず、モノグサで適当人間の勝手で間抜けな考えかもしれないから、怒られてしまうかもしれないが、俺の考えを説明する。
この種?の宗教、哲学、倫理、歴史、教育、といった「純粋な科学」以外の「心の問題」や「複雑要素」を含む、「最後は神学論争」になりやすい議論というのは、直接の当事者とかでなければ、自分の態度や考えを安易に一方に寄せない、つまり内心でどう思っているかは別として、ハッキリとさせないのが、色々な意味で得策、つまり合理的だと考える。
「曖昧路線」は「超富裕層」とか「資産家」等の公の印象を多少は気にするかもしれない身分でない、俺のような「ただの凡人」にも、少なくともある程度は「説得力」がある。
なぜなら、どんな問題・論争でも、大体の人間はそれに関して「素人」なので、充分に全ての論点を整理・吟味して正確に「判断」するのは難しい。
そもそも、善悪がハッキリしているのかさえ、分からない論争も多い。もしかしたら双方間違っているかもしれない。従ってどちらを選ぶにしても、「相当いい加減な根拠」に基づく事になる。当たり前だがそれによって反対意見勢力を敵にする面倒がある。
そもそも対立がそれ程厳しくない論議や、意見交換の範囲が「親しい友人同士の世間話」、「気心知れた同僚との飲み屋のダベリ」程度ならばまだしも、ネットやメディアで不特定多数相手に、根拠薄弱で敵を作ってしまうのは危険、覚悟や信念があればまだ良いのかもしれないが、そうでも無ければ曖昧な方がまだマシというか、無難だ。
大体、専門分野や非常に興味がある領域以外は、自分は良くわかってないのが関の山だから、曖昧にするのが一番正しい「自分の素直な意見」なのだ。なぜ、「一番正しい」意見を曲げてまで、どちらかの側に付こうとするのか。非合理的だ。
話が逸れるが、ネットで軽口?を叩いたり気軽に一方の肩を持つような人間には、大体が信念なんて無いのだ、と言ったらこれはこれで不特定多数で敵を作ってしまいそうで怖いから、無難に信念がある人もたくさんいるだろう、としておこう。
それはいい?としても、「ジェンダー問題」を「神学論争」みたいだ、と言ったらまたそれはそれでお叱りを受けそうだが、怒りに燃える?双方の主張などを読んだりしていると各自一理あるので、少なくとも「素人判断が難しい」とは言えるだろう。
これが例えば選挙みたいな、「判断時間の有限性が合法(投票日が法律で決まっている)」であれば「わからないけどこっちにしておこう」も、〆切があるから、しょうが無い。しかも選挙だったら投票先は秘密だから、対外的には「曖昧」と同様だ。
しかし長年論争の難問に「ここで今すぐに、どちらかに決めろ」と言われても、双方の理屈がそれなりに通っていればそうも行かないし、一方に加担した場合、対立が過激であると攻撃される危険もあるから、「どっち付かず維持」が、俺のような凡人には合理的だ。
また、無視できないのが、当たり前だが「立場」によって人間の考えは変化する事だ。
良い例かわからないが、例えば重大な犯罪の極刑は常に議論になるが、その犯罪者と被害者やその家族では、多くの場合で当然意見が異なる。ジェンダー論争においても、立場の違いが大きい勢力が存在する。
従ってネットでは、このような難しい論争について俺の個人的な考えは、内心どう考えているかは別として、述べたくない。
逆に言えば、意見を明らかにする事による損得でプラスが多いと踏めば、それも合理的だ。
さて、ここまでを踏まえて、富裕層・超富裕層に拡大して考えるとどうなるか、長くなったので後日、また投稿する。