「世代間格差闘争の切り札」について考える。
今更であるが、「おま老」構文(批判)というのをよく見るようになった。主に社会保障負担(の不公平)について「老 vs. 若」での論争に於いて、老人側の言い分の1つ(「おまえもいずれ老人になる」)を「オマロウ」と称し、「いずれ老人になる」のはそうだが、これを前段として後段で「現在の高齢者優遇を肯定」するのはオカシイという事らしい。
「らしい」というのは、俺はあまり興味が無く調べていないからだ。しかし話が先に進まないので以下それは概ね正しい(と仮定)して読んでくれ。ちなみにオマロウという言葉自体は、今までも散々論議対象だった単なる世代間格差の利害衝突の一例であり、特に意味が無い。
さて、世代間論争についての意見というのは、その人の属性で読む方の印象も変わる。予断回避のため、俺がどの年代なのかは気にしないでくれ。俺は90代かもしれないし、20代かもしれない。その中間かもしれない。俺が何歳かはどうでも良い。
それはいいとして、まず、俺の社会保障の世代間格差についての雑感を説明する。
雑感といっても普通だが、老人が負担増(に繋がりかねない変化)に反対するのは合理的だ。人間だれでもなるべく楽をして負担は他人に押し付けたい。現在の仕組みが不公平とか、非効率とか、維持不可能だとか、歪んでいるとか、どうであれ「自分が今より不利になる」ような判断は不自然だ。
受益者(高齢者)が大勢力で「民主的解決」も困難だから、「変な眼鏡の学者」の「集団自決」のような炎上商法で目立とうとする輩も出てきてしまう。
俺は世代間格差は正直どうでも良いのだが、自決は論外として、暇だから一応何か出来ることがあるか考えてみる。
まず、「維持不可能」であれば、いつか「社会保障が破綻して作り直さざるを得ない時」が来て、そこで不公平が是正されるかもしれない。
だが自分が年金生活に入った直後に起こると、自分の老後生活破綻の危険もある。そうでないとしても、政府も何とか現状維持・延命に必死になるだろうし、生きている内に起こるか正直アテにできない。
また、自分の事だけを考えるならば、相対的に負担の少ない日本以外に住むとか、あるいは負担増もモノともしない程稼ぎや資産を増やすという手もあるだろう。比較的現実的か。俺もこれに近い考えだ。
あるいは、日本を憂い国民生活がどうとか考えるならば、民主的に仕組みを変えるしかない。だが、上記の通り受益者=多数派勢力が現状だ。
だから、少数派が単に「多数派の皆さん、俺達キツイので何とか非合理的な判断をしてくれ」と言っても、無理があり、もっといえば不自然だ。今テレビなどで喚いている若年代表者はこれが多いので共感できない。
経済的非合理、不自然判断を強いるならば、やはりそれなりの「取引条件」というか「カケヒキ」のカード?が必要であろう。だた「子供達のミライ」とかは正直カードにならない。それで良いのだったら既に変化があっても良いはずだ。
取引だから、もっと現実の利益や被害が無いとダメだ。
たとえばこんなのはどうだろう。
メディアでは連日、「運転手不足」による「旅客輸送危機」が報道されている。減便、廃路線、廃業、もう飽きるほど日本中で起きている。
そして報道で取り上げられる「困る」人達は、もちろんその他にも困る人は多いが、主なのは高年齢層だ。元の数が多いのもあるが、老いると移動は大変になるし、相対的に若年層、現役世代は代替手段を取り易かろうし、全体としてまず困るのは老人なのは正しいとする。
で、公共交通を担うのは、運転手や運輸旅客会社であるから、現役世代だ。
という事は、タクシー・バス・トラック・電車の運転手(現役世代)が、
「高年齢層の社会保障負担を増やして、その分、我々の給料からの社会保険料納付軽減に充てないと、一切運転しません」
「現役世代の年金負担を減らして、世代間の公平化を進めないと、我々は運輸業を退職します」
と主張したら、真っ先に困るのは「老人たち」なのでは無いだろうか。
もちろん現役世代も電車が動かないと困るから、これはチキンレースの様相となるかもしれない。また、現実に困窮した老人の健康問題に発展するかもしれない。
だが、間抜けな学者の「自決」よりは穏健で、平和的で、何しろ「合法的」な労働闘争である。どうだろうか。