記念品について考える。
何の専門家でも無い、一凡人 求職中の素人視点なので、真に受けずに疑って読んでくれ。
突然だが、本日は「記念品」を感が手見る。毎度毎度、同様の主張を別の題材で書いているに過ぎない気もするが、とにかく今日は「記念品」についてだ。
突然だが、本日は「記念品」を感が手見る。毎度毎度、同様の主張を別の題材で書いているに過ぎない気もするが、とにかく今日は「記念品」についてだ。
「記念品」とは何か。
ここでは、文字通り式典等で頂く「記念品」、コンサートなどのイベントで折角なのでと「記念」に購入するモノ、会社関係だと栄誉ネクタイ・バッジ・盾や製品名の入った衣類、有名人に「記念に」サインをもらった書籍や衣類、「記念」写真、何らかの業績や大会などの賞状・トロフィー、友人知人親戚などからもらった「旅行」などのお土産、等とする。誰でも少しは所有しているのでは無いだろうか。全くその類が何もないとしたら、よほど変わっている人だろう。
この類は他人にとってはほぼ無価値の場合が多いが、自分にとってどれだけの価値があるのか判断が難しく、結局引っ越しの度に何箱か持って移動することになる。実用性はほぼ無いので、合理的とは言えない。しかし、処分できない。記念品はクセ者だ。例えば人からもらったものは実用性がほぼない。だが相関単に捨てるわけにもいかない。困ってしまうのだ。
俺も、とある少し前に活躍した、「スポーツのスーパースター」のサインが入ったTシャツを知人に貰って、もう何年も所有している。着る訳でも無く、しかし捨てるに捨てられず(この場合比較的親しい人から貰っているので余計に処理しにくい)、それ故只々保管され続け、そして一緒に移動する。しかし、引っ越しなどで整理の際、このTシャツを見る度に思うのだ。今後これを所有していて、一体どうなるというのか?どうにもならないのはわかっている。だから本当に欲しい人に譲渡できれば良いが、昔の有名人だからもはや需要もない。知っている人が少ないかもしれない。だからそんなのを欲しいというヤツが仮に居ても、信用できない。という事は、利用されるでもなく、俺が死んだあとに、価値のない遺品として処理されるしかない運命だろう。
勤務してきた会社関連のモノも随分処分したが、それでもまだ結構ある。自分が関わった製品のTシャツ等は思い入れ?が処分の前に立ちはだかる。しかし持っていてどうにもなるものでもない。荷物になるだけだ。合理的判断なら、即刻棄てるべきだ。だが踏み切るのは何故か難しいのだ。
しかし、こう言っておきながら、つまり記念品は無駄とわかっていながら、明日もし偶然MLBの選手に会ったら、帽子にサインでも貰おう…と思ってしまうだろう。あるいは、会社勤めを始めて、そして関わった「新製品のシャツが配られる」となったら、他の群がる従業員に混じって喜んで1枚貰うかもしれない。ドサクサで2枚貰っちゃうかもしれない。そしてまた、何年後かに処分に困るだろう。
これらからの教訓は、スーパースターがその辺に居たとしても、眺めるくらい、一瞥するくらいにして、あとは向こうも迷惑だろうし何もしない。会社で記念品配布があっても、なるべく貰わないようにする。家族間での記念は物品でなく、旅行や食事など消費できるものにする。同様に人になにか贈呈する場合でも、消費しやすい商品券とか本人が気にしなければ現金とか、とにかく形が残って後で困るようなものは避ける。
最初の2つは特に難しそうだ。大ファンの野球選手が居て、親切に帽子にサインしますよと言われても、断る勇気が必要だ。超富裕層を目指し合理性を追求している俺もこれらを気をつけているつもりだが、今は有名人にも会うことはほぼありえず、求職中で会社から貰うということもなく、当座そんなに心配はない。どうだろうか。