超富裕層とボランティア

2021-08-01 投稿

その他

ボランティアについて考える。

何の専門家でも無い、一凡人 求職中の素人視点なので、真に受けずに疑って読んでくれ。



ボランティア(以下文字数削減の為”ボラ”とする)というのは、基本有り難いものだ。例えば災害時の捜索や土砂清掃とか、動物の保護とか、食料にも事欠く人たちに炊き出しとか、世のため人のためとして活動されている方々には多くの人が感謝している。

ところが、求職中凡人の俺にはそんなに良い印象がない。ボラに頼むより報酬を介したプロへの依頼が多くの場合効率的と考える。ボラ全否定では無いが、本日は敢えてその問題をいくつか考えてみる。

まず、ボラの定義は難しい。究極、本人が無報酬でボラとしてやっていると思えば何でもそうなるだろう。まずこれが問題だ。なぜなら本人はボラでやっていても他の人はそれをやって欲しくないとか、迷惑とか考え得るのに、ボラにやめてくれとは言いにくい。慈善活動等は軋轢を生むものもあるかもしれないのに、ボラだからといって対抗できないのはシックリこない。

また、ボラ活動は「誰かがやるべきだが、やる人が(充分)いない」、つまり確実な需要のある仕事が多い。見方を変えれば成果があるのが好ましい。しかしボラは無報酬が基本のため、社会全体としては無成果でも対処しにくい。だから作業の進行管理に問題が起こり得る。

そして、ボラをやらない人が、ボラに頼って、誰かがやってくれるだろうという考えに陥る。無報酬だから財布も直接傷まなくて気にしない。頼るのは個人に限らず、公共団体等も含まれる。

最後のは最初の2つが解決すれば大した問題ではないとして、最初の2点は、つまりボラ仕事が「必要か」そして「完了したか」という判断基準が曖昧なのが問題だ。判断が必要ということは、基準と、それを用いる監督者相当が必要、事態は複雑になる。繰り返すが、多くのボラ仕事は必要なのは明白、完了判断も比較的はっきりしていて問題無いが、全てがそうでは無い。その他の曖昧案件が問題だ。

例えば、公園の清掃をボラがやるとする。住人は感謝する人が多いだろうが、中には清掃が行き届いてないとか、逆に頻繁な清掃活動がうるさいとか、器具の使用が場合によっては公園利用者に危険とか、清掃時間を早朝や夜間にしろとか、否定的な意見が充分にあり得る。しかしボラ側から見れば無償でやっているのにそんな事を言われる筋合いは無いと感じるかもしれない。

俺はこう考える。

このような活動は、ボラに頼るべきでは無い。しかるべき管理監督者が、相当の報酬を払って業者に依頼する方が合理的だ。市民もボラだと文句を言えなくても、公共サービスであれば抗議もしやすい。有償である以上、依頼者が作業の結果も厳しくチェックできるし改善もしやすい。業者へお金が動き経済的にも良い。税金の正しい使い方だ。冒頭の土砂清掃も、炊き出しも、役所はまずボラに頼るのではなく、まずプロを頼むべきだろう。

そして、ボラ活動というのは基本、住民に必要とされている仕事をやる。つまり、ボラの仕事ほぼ全てが上記のような公共サービスの対象となる。そうすると、ボラが必要無くなりそうだが、ボラ人員の参加も業者下で共同作業とすれば良い。業者も監督管理仕事が増えるから管理上はボラは「経験させてもらう」という視点で参加する。あるいは、ボラに有償でやってもらうという手もあるだろう。

随分ボラに厳しい意見であるが、俺は上記の通り「専門業者に有償で依頼」する事の合理性を重視する。理由も述べた。これは個人レベルでも同様だ。何かDIY作業が必要として、知り合いにタダでやってもらうよりも、プロに有償の方が結局効率的だ。世の中無償善意労働の美徳が持て囃されやすいが、賃金労働は同様、乃至それ以上に尊いはずだ。そして、必要な活動に於いて善意に頼らざるを得ない人が多数いるとしたら、公共サービスで出来るだけカバーするべきだと思う。どうだろうか。

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