一凡人 求職中の素人視点なので、真に受けずに疑って読んでくれ。
昨日の投稿の続きだ。
資産家の労働意欲:金があっても簡単に買えない、「有意義な」××先
本日は、「技能の魔力」に関連した、労働意欲?の源泉?について考える。
さて、昨日の要旨は
「人間は自分の思考を人に言わずには、正気を保てない。そして、世捨て人の様な、無労働、無接触、で、ただただ「孤独生活」を楽しんでいるかのように見える人々の多くは、ブログで吐露することによってその正気を保てている」
という推察だった。
まぁ収入源としてというのもあるだろうが、若セミとか完全リタイアとかファ◯アーの人々の多くは、頼まれもしないのに、判を押したように、皆ブログに日々投稿している。家族が居たり、地域活動をやっているような人達以外は、特に独居の人達は、ブログ(のみ)で社会との繋がりを辛うじて維持し、自分の正気を保っている面は否めないだろう、と言ったらお叱りを受けるだろうか。まぁどれくらいの割合がそんな感じなのか、わからないが…
俺に言わせれば、本当に孤独を楽しむというのならば、ネット、ブログ等で中途半端な交流を持たない筈だ。また、中途半端に便利な「トカイナカ」等で暮らすのも矛盾している。独りになりたければ、大都会から、市街地から、民家から、なるべく離れるのが原則だろう。
話が逸れるが、日本だけなのか知らないが、最近「孤独のススメ」みたいな論調をよく見る。実際に老後に孤独が見込まれる人が多くなった影響だろうが、あまりに安易に「孤独」を良いものだと導きすぎじゃないだろうか。
大体、人間死ぬときは基本孤独、家族がいても自分が最後に残れば孤独、望まなくても多くが最終盤でどっちみち独り、孤独になるのだ。なぜ若いうちからの孤独固定を良しとするのか、わからない。ゲス推測だが、自分が孤独確定な人達が、自分たちだけだと不安だから孤独世界により多く引きずり込もうこ画策しているんではないかと疑ってしまう。俺自身は孤独の恐ろしさを身を以て体験していないが、メディア等は孤独を甘く見すぎていないだろうか。
孤独を楽しんでいるわけでなく、単に「働きたくない」という人達も多い。確かに現代の日本は、過酷な労働経験や資本主義への虚無感から来る「労働否定」に行き着きやすいかもしれない。
だが結局、いくら孤独かどうかどうでも良い、唯の労働否定といえども、「思考の出力」が必要なのは変わりない。「思考の出力」機会が無い環境というのは結局孤独生活ということだ。何か思いついたり、悩みを吐露したくなったり、感想を思わず口に出してしまったりしても、誰も聞く人がいないのは、正真正銘、孤独じゃないか?
もちろんここでも家族と常に積極行動していたり、地域活動に参加していたりすれば別だが、多くの人は「労働拒否」を「独り暮らし」で行使して孤独問題に突き当たりそうだ。なぜなら、労働での酷い対人関係からの離脱圧力が人生全体に掛かってしまうからだ。
ここまでをまとめると、若セミ、完全リタイア、ファ◯アー、労働拒否、等々この辺の人達の少なくとも一部が、遅かれ早かれ深刻な「孤独問題」に悩まされる。
俺は社会科学の専門家じゃないからよく分からないが、高齢化社会が高速に進み「孤独」が既に社会問題な日本では、今後、このまま社会参加や労働参加に極端に無気力で、自分の考えはネットに書き込むだけの「思考出力」の機会が激減した日本人が増えていけば、孤独死増加の様な単純な問題だけでなく、社会全体が変容してしまう原因になりそうだ。高税とか、治安秩序の悪化とか、格差の極端な拡大とか、どういう形になるかわからないが、とにかく住みづらい社会になる可能性がある。でも日本は先人達の積み上げた有形無形の資産があるから相当持ち堪えるかもしれない。わからない。
俺個人の考えだが、やはりそのような「孤独」の連鎖を断ち切る方法の一番有力な方法は、配偶者などの家族をもつ事だ。そしてもう1つは、「労働」だろう。なぜなら、「思考の出力先」として、ネットより効率的(需要に応える出力である)で有意義(評価されたり、報酬に繋がったりする)になる可能性が高い。
その分面倒ももちろん多いが、家族や友人以外で、特定の人達に自分の思考の出力を見てもらえるのに手っ取り早いのが労働だ。これが俺が資産家でありながらも、果たせない労働参加を求める理由だ。だが職探しは大変に難航している。どうだろうか。