真に受けずに疑って読んでくれ。
突然だが、以前、求職中の俺の労働意欲について、投稿した。
求職中の俺が労働について考える
要旨は、いくら金があっても、「自分の能力」を使ってみたいという、「技能の魔力」から逃れられないという事だった。
本日は、それに関連した、労働意欲?の源泉?について考える。
統計を取った訳では無いが、相対的に日本では、労働に対しての否定的な印象が高そうだ。「とにかく働くのがイヤだ」というブログがいくつもある。また、報道でも恐ろしい待遇の会社とか、漫画でも底辺で酷使される下っ端のような立場がよく描かれる。「労働はバカらしい」「雇われるのは割に合わない」「やりたくないことをやらされる」「報酬も良くない」という風潮が支配的に感じる。従って、なるべく働かない、乃至全く働かない、という生活様式が賛美される傾向がある。
当然だが、どう生きるかは、自分が決める事だ。俺は関知しない。
実際にそのような生活をしてその顛末をブログに書いている人達、またそれらを読んで憧れたり楽しんだりしている読者の方々にも、どうこう言うつもりはない。ましてや、何が正しくて何が間違いか、分かるはずがない。実際、無職(求職中)の俺も、人間関係も面倒だし働きたくないという気持ちもある。
だから俺の個人的な考えなのだが、長短考えると、労働への羨望、渇望が拭えない。結局、「まぁ少なくとも元気なうち、体が動くうち、無理なく可能な範囲で、少しは働いたほうが良い」と「拙い思考」が終わるのが常だ。でもいつも同じ結論なので、俺自身の考えとしては固まっている様だ。
自分でもよくわからない。だって、「求職中求職中」と気楽に念仏を唱えていられる位の余裕はあるのに、「働きたい」のはなぜなのか…?
考え方が古いとか、日本のひどい労働環境を知らないんだろうとか、資本家に洗脳された考えだとか、確かにそれら全て完全論破もできない。事実はどうなのかわからないが、実際そういう一面がありそうなのは否めない。
しかしそれでも、考える程、結局、働いた方が良い、つまり損得両方あるが相殺して得が残る気がしてしまう結論に達するのだ。もちろん俺の信念や環境や様々個人的要素に影響されるから、これが真理だとか万人に当てはまると言う積りはない。
だが、超富裕層を目指す一凡人も、稚拙にこういう事を日々考えているというのを読者に知っていただくというのも、面白いかもしれないので、再度、労働について投稿する。
上記投稿では、「労働肯定」の一部の?根拠として、「技能の魔力」を挙げた。今日の内容も一部、それと重複する。
さて、話が多少逸れるが、なぜ俺は下らない文章を、時に「面倒だ」「誰が読むのか」「意味がない」「今日は何を書けばよいのか」等と、命令されている訳でもないのに悩みつつも、書き続けるのだろうか。まぁ書き続けると言ってもまだ1年も続いていないのだが…
こういう事の理由は常に複合的で「これだ」というのは難しいが、最近感じるのは、自分が「考えている事」、「感じた事」、「発見した事」等々を、人間というのは誰かに話さずにはいられないという事だ。
「いられない」というと「強い表現」でありながら「曖昧」であるが、逆に、「考え、発見、意見、感想、等」を誰にも話さずにいたらどうなるだろうか。短期間なら問題ない。だが、永遠に耐えるのも難しそうだ。俺なら10日位で自分では仮に大丈夫と感じていても、おそらく傍から見ると異様に、あるいは異常に見えるだろう。みんなはどうだろうか。何年でも、死ぬまででも大丈夫という超人もいるのだろうか。超人はいいとして、多くの人はそのような「ほぼ完全孤独」は問題なく耐えられるのは、せいぜい数日程度と仮定する。
隠遁生活、労働拒否生活、地域活動忌避生活、等々を「毎日楽しい」とブログに書いている人達の少なくとも一部は、独り暮らしで、しかも地域の活動なども忌避し、ある種世捨て人みたいな生活を送っている場合も多い。俺からするといわゆる「ほぼ孤独生活」にあてはまる。だが俺の理論によると「人間とは日々の思考や感想を人に話さずにはいられない」筈だ。なぜ、隠遁者、労働拒否者は生活や人格が破綻しないのか。
そのような人々の、「思考や感想を吐き出す」、「有意義な出力先」が、ブログ(ないし最近はいわゆるソーシャル的なヤツも)なのだろうか。逆に考えると、ブログとかSNSとか、新たな出力先の隆盛がファイアーとか若セミとかを生み出したとも考えられる。つまり家族や友達にではなく、ネットを使って不特定数の人に吐露している可能性が高い。そんなに間違ってないだろう。どうだろうか。
そしてそれがなぜ「労働意欲」に関係するのか?長くなりすぎたので、それは明日考えをまとめて投稿する。