「経済成長否定」について考える。
一凡人 求職中の素人視点なので、真に受けずに疑って読んでくれ。
いきなりだが、ネットやメディアで「経済成長否定」乃至「経済成長一辺倒路線の訂正」を論じる人は多いと感じた事はないだろうか。左系政治家・学者に多い気がするが、比較的若い評論家的な人達にも結構いる気がする。
統計を取ったわけでは無いし大昔からある意見かもしれない。とにかくそのような傾向があると仮定して、色々分析され尽くしているかもしれないが、自分の頭で考えるのが大切として、本日はそれを題材とする。
さて、そのような意見は細部で違いがあるだろうが、俺が正しく理解しているとすれば大筋で次のような意見だ。
経済成長目的に偏っている資本主義とそれに基づいている日本を含む先進各国では、格差問題等その弊害が大きくなっている。より良い社会のため、国家運営も会社経営も、少なくともある程度は、成長以外を目指す様に方向転換が必要だ。
つまり現代社会では、国家であればGDPとか生産性とか、会社であれば売上とか利益とか、そればかり目指しているがそれを止めて、より良い世界を目指そうという論旨だ。君もインターネットで色々な人の文章を読んでいれば似たような意見を見たことがあるんじゃないだろうか。どうでも良いが「金亡者的悪者(人物・組織・社会 等々)」に対する「経済的成功では無い”本当の幸せ”を目指す主人公」みたいなのは何百年も変わらない物語の定型だ。昔から皆興味のある分野なのか。
俺にはそのような意見の是非はわからない。少なくとも究極的には今とは違う理想社会があるのかもしれないが、上記のような「成長否定」には、今までの常識?で固まった頭で考えるからかもしれないが、「強い違和感」があるので、俺の素人考えを説明する。
まず、経済成長重視というのは人間にとって大昔から自然で無理がない。逆に言うと、その摂理を矯正制御しようとするのは無理がある。
現在社会、特に先進国世界では効率的な「経済成長」に則した「資本主義」システムでお金が回って、経済を動かしている。資本主義だから、「より大きい売上や利益」「より多くの報酬」などが動機となって人が動いて、社会が回っている。もちろん「商売度外視の慈悲深い行動や奉仕精神」のみで他人や社会に貢献する尊い活動も沢山あると思うが、「主な力」となっているのは「利益や報酬」などの経済的な成功だ。
あるいは大昔、我々の祖先が作物を育てていて、来年は少しでも生産量を増やそう(経済成長しよう)と思うのは目上の人(上司や株主)がいなくても普通だ。畑を大きくして組織的に栽培収穫したり、漁に出るのに役割を決めて大きい漁船を操作しようと考えるのは無理がない。例え生きていくのに充分と分かっていたとしても、何があるか分からないし、少しでも余裕のある状態を目指すのが普通だ。
これが進行して自分に必要な量以上に生産し他人との交換で多様な食料を手に入れたり、快適な住居を作るために人を雇うための報酬代りとするのもごく自然だ。
このような素朴な経済成長活動と、現代の「利益報酬至上主義」は規模や細部に違いがあるにせよ、根本では変わりない。そしてそのような「言われなくても目指すような自然な目標」を、「最近は都合が悪くなったから変えろ」というのは余程の理由がないとただの非合理的な寝言だ。
付随して、成長ができそうな時、人間はそれを「いや、これからは成長一辺倒では社会が良くならないから」とか言ってわざわざ避けるだろうか。「他が隠れてやっているかもしれないから、負けないようにウチもやらなきゃ」と考えてしまうのが自然じゃないか。
また、「成長否定理由」は主に「格差問題」だが、格差はどのようなシステムでも生まれる可能性があるから、資本主義や経済成長偏重の訂正がその「改善手段」である保証は無い。格差は深刻な問題だが、「経済成長を(少なくとも今より)目指さない社会」で格差は無くなるのか。因果関係がそこまで明確だろうか。
しかも、格差は大きいとして、ではどのような状態が万人が納得する「格差の充分小さい」社会なのか、それを定めるのは至難だ。どの数字を使うのか。
その上、仮にそういう状態が存在するにしても、その状態を維持できるか。自由な社会では人間各自思い思いに行動するので、無格差状態が一瞬あってもすぐその後に自ずと差が出で「差」が生じるのが自然だ。「基本は各自自由に経済活動させてその結果差が出るのも受け入れる。そして法律で何とか制御できる程度の酷い不公平状態のみを是正する」のが無理のない目標だろう。大体現在の社会と大差ない。
そして、低俗推測であるが、この様な主張の多くは学者、評論家、御用タレントの様なある意味「成功者」であることも多い。彼等は現在の「経済成長システム」に乗って成功を多かれ少なかれ享受しており、成長否定は二重基準とも言える。
彼らの生活基準と貧困層で大きな格差がある事について、主張各者はどう考えるのか。自ら生活水準を著しく落としてせめて貧困層と差を無くそうとしたりはしていないのに格差ケシカランと言っても俺には説得力が無い。つまり「経済成長否定」の流行?は余裕のある左系学者等々の妄想同然だと思う。
例えて言うと、「物理的に貧しい川のこっち側」と「豊かな対岸側」を大河が隔てているとして、自分たちは今まで通り橋で対岸に着いた後、「イヤ、川を渡るのに”橋”のような手段に偏重するべきではないから橋を爆破しろ。そもそも、物理的に豊かな方を皆目指すのは良くない社会だから、別の土地を目指せ」と言われても困ってしまう。せめて自分達も元の場所に戻って一緒に第三の場所でも何でも目指しながら、主張すべきだ。
加えてよく言われるが「日本国内の格差問題」を考えるなら、日本と海外の格差是正も目指さないのも変だ。日本の貧困層も海外の貧困層から見ると違う様相になる。是正論者がそれを無視するならばそれも主張の信用度を低めるだろう。
最後に、「超富裕層研究ブログ」だから投資家目線で考えると、利益、生産性、経営効率に悪影響が出る程にまで、環境や無償奉仕等に注力する企業や、「売上や利益の成長を目指さない」等という会社があったとしたら、そこの株を誰が買うだろうか。ある論者は従来型の評価に加えて「従業員の幸福度・やりがい」とか「多様性」とか「環境貢献度」を定量的評価に加えてはどうかと言っていたが、究極的にはそれらは生産性・利益・売上に影響するので従来型評価と変わらない。よってそんなのは綺麗事で寝言レベルを越えないと思う。
本当の格差問題の被害者にとってはすでに困っているから成長否定社会実現よりも、手っ取り早い補助の方が合理的だ。成長は今まで通り全肯定しつつ、格差是正は成長からの収入で補助して目指す方が、現実的だろう。どうだろうか。