ネット上の誹謗について考える。
一凡人 求職中の素人視点なので、真に受けずに疑って読んでくれ。
突然だが、ネットでの「誹謗」は常に議論となっている。社会問題としての分析や対策は専門家等に任せて、本日は「自分自身」の投稿者としての「安全管理」を題材とする。
俺も人並み?に誹謗は(中傷も)少なくとも「避ける意志」がある。実際どうなのかは別として、文章で他人の気持ちを逆なでしたり、傷付けたりする意図は無い。
だが「誹謗か否か」の基準が明確でなく、そもそも明確な基準設定が可能か疑問だから、具体的対策を突き詰めて考えると難しい。
政府広報等、様々な場所にその種の説明があるが、どれも曖昧だ。加えて「自分は無意識」「相手の感じ方次第」的な注意書きがある。自分は気付かなければ注意したり修正できないし、また相手側がどう感じるかは事前に知りようがないから、技術的には「絶対安心」な手法は無い。
AIで自動判断とか出来れば便利だが、AIの判断基準自体の信用性も難しい。でもこのご時世、少なくともあくまで参考程度の検証ツールとしては有用かもしれない。すでに投稿プラットフォームに組み込まれて「危険な文章」を含む投稿はブロックされているのかもしれない。
話が逸れるが、とある著名人が動画で「誹謗中傷の類は、身の回りでの”会話レベル”ならいいとしても、それをネットに書き込むな」と言っていたが、カキコミだけ注意して体裁を整えるというのは俺は無理がある気がする。なぜなら、そう心がけても結局判断基準が必要で、その基準に安心安全なモノは無い。
また、よく「人格や内面を攻撃しない」とあるが、人間は自分の引け目に感じる部分、生き方、信念、作品、などを「否定的」に論われると、「内面への攻撃」に感じるかもしれない。
例えば「今後は40年も同じ会社でサラリーマンなんてバカバカしいキャリアプランだ、ありえない」と主張したとする。しかし「サラリーマンを貫く」「サラリーマンが楽しい」という人も当然いる。「サラリーマン否定」はこの勢力にとって「自分の生き方に関する考え」を攻撃されていると感じ、「我々の人格内面を論っている」と感じるかもしれない。
果たしてこれを基準を外れている(ネット等で公開すべきでない文章)とすべきだろうか。
話を戻して、ここで「完全排除」はどっちにしろできないから気にせず自分の常識の範囲で基本自由にする、不測の事態があればその都度謝罪撤回するというのも、常識の曖昧さや事態発生確率と撤回余波に議論はあるとしても、現実的かもしれない。俺も基本そのような考えだ。
だが「完全排除は所詮無理」と自由を貫くより、「曖昧基準だからこそ、面倒な事になり得る」と捉えるのも危機管理上の意義があるとして、以下、もう少し考えるが、あくまでも俺の勝手な基準、何も保証はないので予めそれを了承した上で読み進んでくれ。
まず、身も蓋もない凡庸な対策だが、「個人」を論うのは、伏せ字であってもなるべく避ける。統計を見た訳では無いが、注意を促すサイトにあった「裁判まで進展する例」は個人対象の事例が多い。個人じゃなければ安全な訳では無いが、特定個人を題材にするのはより危険かもしれない。
また、それに付随して、逆に考えて対象としては「現象」とか「風潮」とかが比較的無難だ。
そして、なるべく断定せず、対立する意見等では両論を併記する。何事も長短あるので当然だ。
以上かなり偉そうに書いたが、俺も「いつでも被害者にも加害者にも容易に成り得る」となるだけ肝に銘じて、また正義とか信念等振りかざさずに、今後も投稿したい。どうだろうか。