「災害と善意と欺瞞」について考える。
数日前の能登地方で大きな地震とそれによる津波が引き起こした「被害確認や救助活動」などで、依然として情報が錯綜している。
そして、地震や天候による自然災害でよく起こる気がするのが、芸能人や著名人、報道関係を含めた「救援・ボランティア目的の”第三者”の現地訪問」に対する是非だ。実際、今回もネットなどではそれなりに騒ぎになっている。
特に今回は「地理的、物理的に到達手段が比較的限られる地域」と考えられるため、実際に現地に向かう経路が渋滞して「公的・本格的な救援活動」の妨げになっている可能性が取り沙汰されている。
そのような状況下で、人知れず黙って行動するならまだしも、ネットで宣伝?公言?投稿?しつつ行動するというのは確かに辟易する。少なくとも疑いの目で見られやすい。
現地の状況をみんなに知ってもらいたいという崇高な意図がある人もいるとしても、全体では果たして「善意勢力の現地訪問による活動」が「それによる渋滞等による公的活動の妨げ」を上回っているだろうか。
現実的には、家族など親しい人を助けに行きたいというのは別にして、第三者は当初まず募金程度に留めて、あとはもっと物理的に行動するにしても物資の公的機関への提供等の「自分が居る場所で出来ることをやる」位で、現地で何か手助けするのは状況が落ち着いてからにするのが無難でやりやすく、本格活動の妨げになりにくいと考える。
また、重要なのが、自分の安全を考える必要があるということだ。
火事で燃える建物の中に困っている人が居るからと言って、飛び込んで行くという奇特な第三者は、そうは居ない。
あるいは、大シケの海に「まだ他の船が沖にいるから」といって安全な港から充分な装備も無く救助に向かう無関係な船長も、そうは居ない。
なぜなら、当たり前だが、まず自分が危険だからだ。
また、二次災害を起こすと、それに割かれるかもしれない救助資源が、大元の救援活動に影響する危険もあるからだ。
つまり、自分の危険よりも、二次災害の可能性よりも、自分にとって大切な対象がある場合でないと、善意で危険地帯に突入というのは非合理的だ。しかも前述の「公的救助の間接的妨害」という可能性もある。
では、数日前に激震があって倒壊や津波で甚大な被害があったばかりの地域というのはどうか。
控えめに言っても相当な警戒が必要で、普通なら出来ればより安全な場所や地域に避難した方が良いと考えるのが普通だ。そして自分が行って余震、倒壊、土砂崩れ、感染症、等々に巻き込まれて、その場で自分が他の助けが必要になり、結局迷惑をかける可能性もそれなりにあるだろう。
最後に俺の個人的な偏った考えで、屁理屈になってしまうが、もう1つ「災害時に駆け付ける」人達の欺瞞性疑惑を、怒られてしまうかもしれないが述べる。
「自分に無関係な他人でも、困っていれば直ぐにでも助けたい」というのは崇高な感情で、それ自体はいくら薄情で自分勝手な俺でも尊重する。
だが、「助けが必要な他人」というのは、「災害現地」だけに偏在しているわけではない。極端に言えば、大なり小なり助けが必要な人は、周囲に何時でも居る可能性が高い。
そういう身近な人達より、災害地を優先するというのは、欺瞞と言えないだろうか。敢えていえば、単にその時点で注目されているから、選ばれているだけではないか。もしそうでないというなら、自分の身近には、自分が助けられそうな第三者は全くいないとでもいうのか。そのように低俗に考えてしまう。もちろん疑っているだけで、急行ボラを頭から否定はしない。でも正直どうしても疑いが拭いきれない。どうだろうか。