少子高齢化問題は、誰にとってより深刻な問題か、について(引き続き)考える。
本日は表題に戻って、いわゆる日本の人口問題は、どういう属性の人たちに、相対的に深刻となるかを考える。
毎年、大震災の起きた日の前後は特に、メディアやネットでそれに纏わる記事が多くなる。
俺がいくら「自分勝手な低俗人間」としても、やはり色々読んで考えさせられるが、印象に残ったモノの1つが「避難に困難を伴う」人達、その家族、等々についてであった。
介助や介護に依存せざるを得ない人は、当然ながら避難も、その後の避難生活でも、厳しい現実に直面する。緊急時は「まず自分の安全、次に家族の安全」となるから、必要な補助に平常異より影響が出る可能性がある。
難しい問題だ。当然俺にも妙案はない。
だが、「同じ割合でも、全体の人間数の規模が大きい方が、助けが届きやすい」という考えはあるだろう。
例えば、「何らかの原因」で避難のために「他人からの助け」が必要な人が、実際どうかは調べてないが、概算で1割居るとする。そしてケシカラン考えかもしれないが、その割合は大集団でも不変とする。
で、全体が10人(要補助1人)の地域と、1000人(要補助100人)の地域を考えてみる。
どちらが助けを得られやすいか。
見方によるが、特に緊急時では色々な意味で、「規模が大きい」集団の方が、助けが届きやすいのではなかろうか。
なぜなら、まず、何と言っても「組織的な補助・介助」が可能だ。
また、「規模の経済」も働く。分散した100地域より、それが集積され大規模化した1箇所の方が、例えば医療の提供や物資の調達も届きやすく、また効率が良くなる。
そして、人が沢山いるほど、「卓越した人」「傑出した人」が存在しやすい。その人がいる事で指導力・統率力・利他的思考が効率よく動く可能性がある。
付け加えるなら、嫌な見方だが、たかが9人だと全員が自分勝手でどうにもならない可能性は充分あるが、900人いれば「何とかしよう」という「殊勝な人間」が出現する可能性が高くなる。
もちろん避難所の規模や物資量もあるから好ましい規模の「際限が無い」わけでは無いが、例えば日本でいえば1億2千万人が倍になっても、任意の地域で「人がいすぎてかえって困難」とはならないかもしれない。
これは先日が「震災周年日」であって「避難に困難を伴う」ような「緊急時」で考えさせられたが、「平常時」でも同様な結論になる。
例えば、「住民税の非課税世帯が25%」あるといわれている。あるいは、年金保険介護では「現役世代が1.3人で高齢者1人を支えている」という統計もある。
当たり前だが、同じ比率でもまず規模がなければ、全体をカバーできない(規模があっても無理かもしれないが、小規模になるほど破綻しやすい)。
なぜなら、上記1.3対1の比率で考えると、小規模だと10人を13人でなんとかするということだ。少子化が進み近い将来、「1対1」になっても不思議はない。大抵の人は自分だけでも精一杯なのに、赤の他人をもう1人養うのは無理があるが、全体20人程度の村ではどうにもならない。
だが、100万人で自分達以外のもう100万を支える「全体で200万人の地域」とすると、依然困難としても、規模による「組織力」「規模の経済」で相対的には希望が少しはある。また、100万人現役世代が居れば傑出した人物も出て来やすいから、何らかの大きな進歩も生まれたり、超高額の納税をしてくれる人間も出てくるかもしれない。
あるいは最近流行り?の「無料サービスを漁って、税金も払わないように工夫して、その他生活を倹約して、とにかく労働しないで生きる」という「嫌労勢力」にとっても、規模は好ましい。
どれくらいの割合そういう「労働否定勢力」がいるか知らないが、「大安売りで節約」とか「無料お試し乱用で倹約」しようとしても「需要規模があるから供給方も全体で得」でやるのであって、縮小経済では商売になりづらい。健保も規模がなければ1人あたりの費用が高くなり、保険料上昇の圧力がかかる。
という事で、「少子高齢化人口減」問題というのは、上記の所謂「社会的弱者」にとってより深刻と言えるだろう。どうだろうか。