真偽不明について考える。
唐突だが、以前、「情報の真偽」について、投稿した。
情報が溢れるインターネット。真偽不明を考える。ところで、今まで「真の超富裕層を目指す」とか言って、散々偉そうな事を書いてきて何だが、「超富裕層を目指すだと?嘘を言うな!今いくら持っているのを証明しろ!」と思う人もいるんじゃないか?しかし逆に聞きたい。君は、自分の資産額を証明できるか?
「ネットの不特定多数向けの記事内容はとりあえず信じる」と、少々偉そうな?事を書いたが、今日はそれについて補足する。というのも、その後、上記投稿を読み返したり、一般の「不特定多数向けの記事」を読んだ際に再考して、少し説明不足と思った。
結論から言うと、「ネットをとりあえず信じる」というのは、「とりあえずこの書き手がこう思っている、と信じる」と言う意味だ。そして、もちろん書き手がそう思っているからと言って、それが正しいとは限らない。その是非は別として、書いている人の「少なくともある程度の本心であろう」という前提で読むということだ。もちろん、本心とは限らないが、そうでないと読み方がわからなくなってしまう。話が逸れるが、本心ではないとして、それでも文章の本質を探ろうとすると、書き手の心理自体を読まなくてはいけないが、そもそもそこまで心理を読む能力がない。できたとしても、そんな事をいちいちやっていたら疲れてしまう。一つの投稿で部分で気に本心、部分的に本心でない、とか判断しても、一体文章全体で何がわかるだろうか。疑問だ。
話を戻して、「信じる」と書くと、「正しいと受け入れる」意味にもなるから、説明不足であった。少々入り組んでいるので、もう少し説明する。
まず、書き手が何かを主張したりしているからと言って、その人が本当にそう思っているとは限らない。これは異論無いだろう。
だからといって、では書き手の本当の意見や主張は何なのか、知る事はできない。人間の本心は、他人には永遠にわからないからだ。これも真理と言って良い。
話がまたまた逸れるが、人間というのは、往々にして、本人にでさえ、自分の本心は何かが分からなくなることもありうるだろう。自分が本当は一体何を考えているのか、何を望んでいるのか、何を信じているのか、突き詰めるのは難解だ。哲学のような小難しい考え過ぎの迷路に入ってしまう。あるいは非常に宗教的な精神世界の沼にハマってしまうかもしれない。どっちにしろあまり時間の使い方としては合理的には思えない。
話を戻して、俺が上記の投稿で言いたかったのは、この点について、(一応は)信じるということだ。
つまり、書き手は自分の心を偽ったり、読者誘導を目的としたり、全て笑わせるための冗談であったり、あるいは完全な創作物の一環のつもりで書いてあったり、とにかく何らかの理由で「自分の思っていることとは別の意見」を書く事もあるだろうが、俺が読む時は一応、書き手は本心、自分の意見を書いているという前提で読む、そこは(一応)信じる。
別に信じなくても人それぞれで良いのだが、俺の場合、「信じないとして、ではどうする?」と問題に思ってしまう(他にどうしようもない)。前述の通り本心は計り知れないから確証は永遠に持てない。したがって一応は信じる方向で読むというのが要旨だ。
「その点」は信じるが、「正しいかどうか」は、別だ。読者が自分で判断する。この読み方でも、色々問題あるかもしれない。ネットの記事の読み方は人それぞれだ。どうだろうか。