一凡人 求職中の素人視点なので、真に受けずに疑って読んでくれ。
今更であるが、選抜高校野球の出場校選考について紛糾している。
論調では前哨大会での勝敗結果が反映されないのは変だ、結果を出したのに選考漏れは選手たちが気の毒だ、というのが大勢だ。それはそれでその通りだろう。俺も気の毒に思う。
是非、分かり易い選考基準にしてもらいたい。案外、今回社会非難を受けて、今後選考の責任を負うのはリスクが高まると予想されるから、責任逃れには無類の行動力を発揮する年寄り達が、もしかしたら迅速に単純方式に変更するかもしれない。
だが、求職中求職中と呑気に念仏を唱えていられる程度の投資家の俺はゲス推測してしまう。
「選考」というのは、選ぶ側の「権力者」の主観で決まるので、確かに結果を出しても選ばれない学校にとってはある意味バカバカしいし、そもそも非合理的だ。
だが、考えてみれば、世の中はそのような「非合理選考」に満ちている。
ありとあらゆるオーディション、あるいは会社の採用や人事、友人関係、各種選挙に至るまで世の中「主観選考」の連続だ。「勝敗のつく」野球の地方予選みたいに行かない「選考」の場合、不条理が横行する。というか、数字にできないモノは、「完全合理的」判断が出来ないからやむを得ないのかもしれない。
「主観選考」は日本だけではない。
例えば、MLBに「野球殿堂」がある。そして「殿堂入り」は基本的に、記者協会員の投票によって決まる。MLB選手以外の、「普及貢献者」等も殿堂入り対象だが、それは置いといて、MLBの野球選手や監督というのは偉業、業績がほぼ数値化されている。
だが会員記者の人気投票のため、実績が劣る選手が選ばれることもある。八百長疑惑や薬物疑惑のある選手たちには非常に高くついたとしても、俺はMLBファンとしてはどうしても非条理的に見えてしまう。なぜなら協会員という非常に狭い人たちの考えだからだ。本当は野球ファンの投票が望ましい。
MLBは今日はいいとして、では選抜選考も社会の不条理でしょうがないのか。しょうがなくないとしたら、それはなぜか。
非常に単純だ。
学生スポーツというのは、教育の一環という建前だ。高校野球もそうだ。日本高等学校野球連盟憲章にも高らかに教育目標が謳ってある。
第2条(学生野球の基本原理)
(公益財団法人 日本高等学校野球連盟「日本学生野球憲章」より抜粋)
学生野球における基本原理は次のとおりとする。
① 学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成を目的とする。 ② 学生野球は、友情、連帯そしてフェアプレーの精神を理念とする。 ③ 学生野球は、法令を遵守し、健全な社会規範を尊重する。
しかし一方で、高校野球を含め競技というのは、勝負が全てでは無いのかもしれないが、知力体力、能力を出し切って「勝利」を競い合うのが尊い。ここで「いや~社会というものは非条理なんだよ、それを身を以て体験させてやろう」と、変な選考をするのは、教育上、悪影響がある。従って、俺から見ると、明らかに上記憲章・規定の「民主的な人類社会の形成者」「フェアプレーの精神」「権限な社会規範を尊重」に反している。今回の選考は「日本学生野球憲章憲章」違反だ。
誰かの主観が競技結果より重要というのは、教育の一環として正しいか?合理的結論が出せるのに、結局、社会はどこでも「非条理、非合理性」が蔓延り、目標を定めてそこへ向かって個人組織で努力し、達成しても、結局「報われない」という不条理に負けるのだ、という達観を植え付けてるのは、教育上「害がある」可能性がある。つまり、連盟の教育憲章に反しているのだ。選考者は憲章違反として、組織内で罰するべきだ。
将来、仮に何らかの決断を迫られた際、「合理性でははっきり結論が出ているが、学生野球時代の不条理経験を活かし、ここは俺の主観でそれを捻じ曲げてやろう」という考えを持つ可能性がある。すごい社会的損失だ。そしてその原因は教育の失敗だ。
人間には誰でも主観があるし、深刻な軋轢にならない程度に制御すれば、それ程社会問題にはならないかもしれない。だが、仮に主観横行で問題化しているとしたら、それは主観によって得をしている人達がいるという事になる。既得主観権益だ。例えば、今回の選抜選考委員は誰だか知らないが既得権益者、非合理的権力者の権化だ。そのような権力者が、高校野球の本来の目標のはずの崇高な教育原則を外れてしまっているのだ。高野連は教育組織としては落第、選考委員達は処罰・再教育が必要だ。どうだろうか。