「施政者に問われる本当の能力」について考える。
今更だが、葬儀形式?について依然、論議になっている。一応、「国葬」という事で決定したようだが反対意見が散見?される。
税金を使うのはケシカランとか、国葬にする法的根拠が無いとか、そもそも逝去者が国葬にふさわしくないとか、その辺りが議論されているようだ。他にも論点あるかもしれない。
各反対論点についてだが、まず「お金の問題」で考えると、反対者の考えは「国葬なんかに税金を使うな」とか、「国葬に使う金があれば他に使った方が良い」という考えと思われる。しかしどのような予算も国民全員が賛成というのはあり得ない。つまりどのような使い道であっても「それに使うならこっちに使って欲しい」という要望はあるだろう。全員賛成の予算付けなんて幻想だ。今回も「是非、国葬を税金で執り行ってほしい」という要望があるのだ。ではどう決めるか?それは予算決定を委託されている時の政府や議会が決める事になる。そんなのは受け容れられないという人もいるだろうが、それでは国葬だけでなく如何なる予算も受け容れられない可能性がある。
「法的根拠が無い」というのは本当にそうなら困るが、内閣や政府というのはなにか不測の事態が起こったときのために用途が自由な枠があり、それを使用するとすれば、素人考えだが問題になるとは思えない。怒り心頭の人達が訴訟を起こしているそうだから、裁判所が然るべき決定を下すだろう。また、仮に「国葬法」みたいな法律を作るにしても、どのような基準を書き込むか難しい。そのような法律で時間を浪費するのは合理的とは思えない。
そして一番肝心?な「(被葬者が)国葬にふさわしくない」という意見であるが、これも議論になりにくい。無意味な論争だ。なぜなら「国葬にふさわしい(相応しくない)」というのは「主観」だ。つまり「気持ちの問題」であり、完全合理的に振り分けが可能な判断とは言えないから、主張が互いに反するというだけで論議にならない。身も蓋もないがこのような議論は「時間の無駄」である。そして、今後このような事がないように「国葬にふさわしい」人を法律で決めようとしても結局「主観」や「御宣託」や「宗教観」等々が関わってくるからそれさえも結局無駄であろう。今回の国葬がダメというのは自由だが、日本人が一人も反対しない様な「国葬被葬者」がいるだろうか。誰であっても反対意見はある。全員賛成では国葬はできない。だから「今後一切国葬は禁止、税金支出を認めない」というなら解りやすいが、果たして賛成多数を得られるであろうか。国葬がだめでも「県葬」や「市町村葬」はどうするか。キリがない。議会や首長等に一任するのが合理的だろう。
そして、俺の勝手な意見かもしれないが、このような賛否の議論でネットやメディアが必要以上?に盛り上がったりするのはとても日本的だと思う。日本人、日本社会がこのような反対運動とか物事を先に進めるのを邪魔する活動を好んでいるように見えてしまう。
「日本的だ」という意味を言い換えると、まず日本はこの程度?の要件で揉める程に、ある意味平和?だという事だ。別の言い方をすれば、他のもっと重要そうな問題が無いのか、あってもとりあえず先延ばしにする余裕があるということだ。あるいは重要そうな問題は解決が見込めないから、諦めて世間が注目しそうなこっちを取り上げるという経済的な考えでもある。
そして、(ほぼ)全員が賛成しないと反対意見が例え少数であっても比較的頻繁に採り上げられる。反対意見がある限りは善処すべきだという空気が強い。騒いでいるのはごく少数だから強行等という態度を見せると途端に叩かれてしまう。実際は全員賛成等という政策や意思決定は有り得ないから、施政者はその辺をうまく誤魔化して物事を先に進める能力が問われる。
このような状況では、やるべきことを進めるのに時間がかかるため、社会全体では合理的とは言えない。そして誤魔化し有耶無耶能力が重宝されてしまう。その能力は社会改善の為の改善や変革自体の施行能力でないため、本当に必要な議論が蔑ろにされて、それが影響する住民は割りを食っていることになる。俺は諸処の事情で影響が少ないからどちらでも良いが、多くの日本人にとってはどうなんだろうか。