「謝罪」と「娯楽」について考える。
年末からの文春の、有名芸能人に関連した「強要疑惑」報道で、日本国内は依然として大騒動だ。核心の是非はわからないが、次から次へと証言者が出て一種大喜利状態になっている。
それでもう忘れられたかもしれないが、当初よく見かけたのが、
「マスコミ対策を専門にしている私からすれば」
「安全管理のスペシャリスト視点から分析すると」
「長年このような騒動を研究している私に言わせれば」
といった、何やら(偉そうな)枕詞?但し書き?暗に優位主張?的なとにかく「決まり文句」が付いた「初動評論家」による「初動」分析だ。
同僚芸人を含めた一部芸能人もそれに乗っかって宣っており、本日はそのような御宣託芸能人・記者・評論家を纏めてフザケつつ題材とする。
彼らの分析は一様で、必ず「初動がまずかった」という基本路線となっている。だが何をやっても、まず「初動が素晴らしい」と評されることは無い。
「正しい初動」等というのは、もはや「妄想」「都市伝説」だ。もし正しい初動があるとすれば、それは過去に遡って件の事象を起こそうとするまさにその時に、「これは止めといた方が良い、慎重になろう」と思いとどまる事(今回だと疑われそうな飲み会しない事)だが、当然それは不可能だ。
とにかくそこには叩くべき「初動」があるだけで、正しいも、良い悪いも、無い。
ところで、偉そうな「初動論評家」達は、過去に果たして誰かを「良い初動」に導いたとか、自分が不祥事に巻き込まれて「初動に成功した」とか、そういう経験・実績・事例があるか甚だ疑問だ。
「初動」せずに何もしないと、それはそれで「ダンマリはケシカラン、良くない初動だ」と言う愚か者?も出てくるが、連中は「何をやってもとにかく文句を付ける」のが商売であるから、こういう連中に材料を与えないためにも、攻撃対象となったら「初動」はしないというのが望ましい。とにかく批判前提であるから、何もしない方が良い。どう初動しても無意味、非合理的となる。
そもそも初動を含めた「対マスコミ活動」は究極、重要ではない。ここでは初動を対象に、説明する。
まず、強要があったのであれば、初動に関係無く、被疑者の行動が捜査される。
また、デッチ上げだとすれば、あるいは潔白だとすれば、初動に関係無く、情報提供者と報道機関の責任が追求される。
では、上記どちらでも無いとする。この場合双方で認識の違いがある。認定するとすれば裁判とかだが、初動に関係無く裁かれる。すでに起こった事を判断するのに、初動を含めたその後の言動は影響しない。
つまり、どのような場合でも初動は無関係、何かしても「初動業者」が得をするだけで、当事者にとっては初動等対マスコミ活動は、究極何をしても無駄だ。
そして、そういう業者というのはつまり、評論家、芸能人、記者、等々である。つまり今テレビ等で「件の芸人の対応」について話したり書いたりしている愚かな連中だ。
極端な見方をすれば、そういう連中や視聴者の多くが、核心がどうであれ、「とにかく下手に出て、不本意でも言い訳せず、不祥事を全面的?に認めて、謝罪に徹する」というのを期待しているのではないだろうか。俺の思い過ごしかもしれないが、日本人はとにかく謝罪が好きだ。低俗に言うと、見事に謝罪する「謝罪芸」、あるいは大恥をかくような「大失敗謝罪」を見せると、娯楽に転化して、当事者はともかく視聴者とかメディアが(一応)(一旦)納得する。
船場吉兆とか、野々村議員とか、芸能人の麻薬とか、しばしば「謝罪」が一連の出来事のクライマックスになる。
こういうのは実際悪事を本人も認めているから謝罪が自然だが、実際不祥事や疑惑では、「一件落着」感を世間に与える結末は「謝罪(会見)」だけしかなくて、それ以外は何だかモヤモヤ感を残してしまう。つまり多くの騒動で真実に関係なく、謝罪結末の娯楽を求められるののが、日本という気がする。どうだろうか。