真の「ガラスの天井」と日経平均は日本人の昨日(帰納)的志向について考える。
今更であるが、日経平均が1989年末の値を、30数年かけて先日更新した。大ニュースとなった。
この指標値が高いとか、安いとか、今後どうなるとか、そういうのは俺はどうでも良いので、他に任せそれ以外のクダラナイ事を本日も題材とする。
人口問題、地政状況、貨幣価値、等々が当時と比べて、長い時間で激変しているので、その「30年前」と「現在」を単純に「値が上か下か」と比較するのはいいのかという疑問もあるが、「高値更新」は日本人が患っている思考・気質を変革させる一因となって欲しいと密かに期待している。
というのも、俺も含めてほとんどの日本人がこの30年の指数値に慣れきってしまった。遠い昔に38000以上だったというのは「前史」や「神話」の世界の話の様になって、10000円以下になっても特に不思議でもない、と耐え忍ぼうとし、20000円以下を超長期間往来でも何とも思わない。
1万後半良くて2万後半とかが「慣れた数値」であり「普通」の事として、刷り込まれてしまった。4万円なんてありえない、仮にそう予想する記事を見つけて読むとしても(無意識に)ネタ扱いとしてしまう。ましてや日経平均10万円なんてあるはずないだろうという「偏り」が染み付いてしまっている。
しかし、極端な話だが、例えば日本経済が発展しなくても、円の価値が10分の1になれば、円で買えるものの価格は10倍になるから、それだけでも40万円になることもありうるわけだ。だが、縮小倹約癖がそのような予測が入ってくるのを阻止する。縮小倹約清貧思考は何と恐ろしいか。
実際、1㌦=100円だった頃からだとドルで買うものは1.5倍になるはずなのにそこまでは上がっていない。企業の方も「価格に転嫁したら売れなくなる」という「縮小倹約清貧」の精神に取り憑かれて値上げできない。政府もガソリンに補助金を出して物価不変信仰を支えようとする。
やるとしても「逓増」「逐次」で何とか誤魔化そうとしてしまう。これは企業が「賃金を出す」方も「給料も逓増で対応」となり悪影響するから、実入りも実感できるほど上がらないという期間が長く続いた。
実際、件の日経平均だけでなく、例えば米価、鶏卵、家賃、初任給、電気代、電車賃、電気水道代、等々が長年で「微妙な上下」はあるとしても総じて1989年当時と「それ程は」変化していない。パソコンとか、CDとか、携帯電話とか、下がっているものもたくさんある。ラーメンは1000円でお釣りが来るものと刷り込まれてしまっている。初任給は大体20万くらいが長年相場で50万円以上だとニュースになったりする。電車賃が初乗りで250円だと「高い!」と驚いてしまう(かもしれない)。
とにかく「価格が上がるのは許さない」「値段は上がるはずがない」という「思い込み」の毒が全日本人に回ってしまっている。そして恐ろしいのは、こういうのを頭でわかっている積りでも、それは解毒されている訳では無いという事だ。このように偉そうに書いている俺だが、コンビニで数百円の缶飲料が並んでいたら、体が「高い」と思ってしまう。なんなら欲しくても購入を避ける。これでは経済が健全に発展しない。
これが日本人、国民特有の気質である証拠に、国外の消費者や投資家の「値付け」「値踏み」は我々の想像より著しく高い。ニセコや都心の不動産、外食やホテルの値段、等など「外国人に需要がある」モノやサービスが先んじて高騰し、そして今回はそれが「株価」にも及んでいるから「高値更新」となった。
今後どうなるかはわからないが、せっかく一部のモノやサービスの価格が上がっても、この30年の思考でケチくさく「物価が上がると生活が苦しい」とか「今後のためにより節約に励む」とか「もったいないを徹底する清貧の精神が日本人の心」とか、日本人は寝言を言い続けそうだから、先の成長は望めず停滞が続く可能性も充分にある。
そうなると一部?の「清貧を良しとしない」獰猛な日本人勢力だけが稼いで、いよいよ格差が大きくつく。日経平均はそのような「日本人のケチ天井」の1つだ。このような日本人が陥った「不変志向」、「昨日の値段は今日も続くという思い込み」を揶揄して「帰納」に絡めて俺は「昨日的志向」と呼ぶ。どうだろうか。くだらないか。