地域活動を考える。何の専門家でも無い、一凡人 求職中の素人視点なので、真に受けずに疑って読んでくれ。
「地域と共に〜」
「地元に〜で恩返し」
「ご近所と共同で〜活動」
「コミュニティで〜を通じて、社会貢献」
古いメディアはもちろん、ネット記事投稿等で、特に意識高い系や活動好きによって常時繰り返される決め台詞?だ。
凡人求職中の俺はこういうのが苦手だ。正直に言うとやりたくない。素直に言うと関わりたくない。若年セミリタイア系の人達とは考えが全然合わないと思うが、彼ら彼女らはどうも地域活動に消極的な人が多いらしく、そこは意見が合う。
そりゃ俺だって挨拶くらいのコミュはやる。お隣とは普通に会話するし、散歩で知らない人とすれ違って目が合えば、目礼位はする。だが地域活動となると別だ。できれば参加したくない。やりたいけど敷居が高いのではなく、やりたくない。予定に入っていたら、終了するまでストレスがかかるだろう。時々自分から大役を買って出る様な人がいるが、畏敬の念を持つとともに異星人を見ている様な感覚になる。
現在はまだ冒頭の定型文がどこでも溢れていて、地域活動や貢献はとにかく良い事、何なら誰でもやるべき、参加すべきという論調だ。しかし俺は正反対の意見だ。地域活動地元貢献は非合理的だ。参加したくない一心で本日は理屈をこねあげた。
まず、もし地域活動で、例えば道路脇の草を刈るとか、池や川の浄化清掃をするとか、通学路の見回りとか、生活に必要なインフラ維持ならば、住民の自律的な行動に頼るより、公的にやる、つまり税金を使って専門業者に任せるのが合理的だ。この点については以前投稿で触れた。
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そして、地域密着や地元ありきのお祭りその他伝統行事等は、大都会以外では地域活動は中長期的に維持が難しい。維持されにくいものに積極的に参加すべきというのはおかしい。そもそも町や村自体が消滅の危機に瀕しているのに、そこで地域活動といっても効率が悪いだろう。人が多いと行事にはそれなりに需要、合理性がある。今はその需要元である住民が減少しているのに、イベントだけ維持するのは矛盾だ。地方ではどんなイベントでも規模のメリットが働かなくなり、観光で人を呼べるくらいでないと、やっても誰かが損するだけで非合理的だ。
大都会ではどうか?大都会というのは転入超過で成り立っている。そして転入してくる人達で地域活動や地域貢献を期待する転入者は少ないだろう。そういうのが必要ないのが都会の良いところだ。乱暴に言うとほぼ皆、勉強か商売にやって来る訳だから、それに集中したい。集会所で自治会の老人の話を聞いたり、民生委員となって悩み相談を受けたり、通学路で変な奴が周りにいないか監視している暇は無い。大都会でも地方でも、自分の目標、やりたい事に集中するのが合理的だ。
また、地元で起業や民間非営利組織などの経済活動はどうだろう。俺の勝手な考えかもしれないが、経済活動で対象を地元や特定地域に狭めるのは不自然だ。地方でカフェを開業したら地元客より観光客が多いかもしれない。老人のために無料パソコン教室をやったら遠方から来たがる人が沢山いるかもしれない。それを「うちのカフェは住民対象なので」とか「この教室は地元の人のためのものです」と断るのか。離島とか国境とか致し方ない例外もあるだろうが、商売をする上で対象を最初から絞るのは非合理的だ。顧客や需要は行政区分とは無関係だからだ。ましてや最近の商売はネット上でも展開が当然、余計に地元貢献といったって有言無実だ。
それから、地域の人同士で共通興味を介した社会化もある。しかしそれは趣味等が重要なのであって、地域内で収まる必要はない。例えば料理が趣味だとする。それを介した活動をするには、ネットもあるし地域に拘る必要はない。逆に言うと地域に収まると広がるはずの世界も狭いままになってしまう。何でも地域外とも交流できるのが望ましい。
つまり、経済活動や社会化努力に関して言えば、地域や地元等という枕詞は要らない。それら接頭辞を除いて、普通に場所にとらわれず地域活動・地元貢献すれば良い。
「遠くの親戚より近くの他人」といわれる様に、いざという際に頼れるご近所さんがいるのは良い事だ。でもそれには地域活動と引き換えなのか。普通の人は普段挨拶だけの隣人でも、地域活動参加不参加関係なく、緊急時くらいは助け合うと思うんだが。もしそんな助け合いなら参加半強制地域ならば転入者はいずれいなくなり、地域は廃れていくだろう。そんな奇妙な地域に俺は転入したくない。
ところで、上記論拠を読んできて、経済活動の段落で、税金を払うから対象を絞らなくても地元貢献できるじゃないかと思わなかったか。確かにそうだ。でもこうも考えられる。その地域の住民であるだけで、別にカフェを開かなくたって、様々な税金を払うことになる。つまり納税により地域貢献している。住んでいるだけで充分な地域貢献だ。だからやりたくもない地域活動を必要以上に勧める・勧められる必要はない。住民は納税してあとは自由に商売や投資や勉学に励めばよいのだ。
さて、ここまで地域活動・地元貢献は非合理的だと述べてきた。しかしその非合理性を無視できる、つまり地域活動に注力できる人達が実は日本には沢山いる。それは暇で元気な老人だ。これが俺の今日の結論だ。つまり、面倒な地域活動・地元貢献は、他の忙しい人達を巻き込まず、それをやりたい元気な爺婆にやらせとけばいい。俺も老人で暇で元気でやる気があれば、率先する。まだそれは先だ。どうだろうか。