メディアのカサにかかる攻撃について考える。
今更だが、日本で今一番注目されている「合否」(この場合はニューヨーク州の弁護士試験)において、まだ確証は無いようだが、どうも結果「不合格」だったとの報道がされている。本日は「不合格」であるという仮説?を前提にすすめる。
以前この件に関連して投稿した。
今更だが、件の記者会見終了後も騒動?が継続している。賛否両論というか否定的な意見が多いが、何をどうやっても、万事収まる様な方策はなかった。質疑をやっても「新たな疑問が‥」と言われるだろうし、やらないほうが良かったと言っても、何も挨拶なかったら文句を言われる。とにかく何をやっても、またやらなくても、どこからか煩い御宣託者が出てきてケシカランこうすべきとなりやすい。このような反応は、日本で起こったことだから当たり前だが、非常に日本的だ。日本的とは色々意味があるが、この場合は「一部のスキも許さない、完全無欠の状態や説明を求める」マスコミやその背後にいる人民の嗜好をいう。とにかく、文句をつける箇所を探し出してそこをつつき続ける。
突然だが、やんごとなき方々関連の結婚について、メディアの報道が盛り上がって?いる。俺は時々ラジオ番組を聴くが、ある番組が一旦中断して、会見のニュースを入れて、しかも会見をしばらく中継していたので、驚いてしまった。別にそれ程緊急性もないのに…ところで、それに関連し、事実でない報道や誹謗中傷について、またそれによる対象者の心身への影響も議論になっている。確かに重要な問題だ。だが、週刊誌とかテレビ等の報道機関をいくら非難しても、状況は改善しない。
日本国民の建前を言うと「基本どうでも良いが、止んごとなき一族の子女との生活を何とか米国で安定させてほしい」といった感じだが、低俗推測すると、「それなりに頭脳明晰だろうから受かりそうだが、一体落ちたらどうなるんだろうか?」といった野次馬根性もある。でも自分たちの生活にすぐに直結するわけではないし、本心はどうでも良いと思うのが自然だ。
だが、これも低俗推測だが、日本の中で絶対にその本心を口に出さないだけで「不合格」をおそらく心の底から願っている人達がいる。それはいわゆる「ゴシップ業界」「メディア」だ。「ゴシップ業界」というのは仮に不合格だったとして連日報道するであろうテレビの番組制作局、出版社の編集部、記事を書くフリー記者、等々だ。「メディア」というのはそれを掲載する「場」を提供する出版社、テレビ局等々だ。「これで合格までは飯の種に困らない」と青年の批判記事を幾つも既に用意しているだろうし商売でやっているんだからそれは合理的だ。読み手視聴者の需要さえあれば事業は成立する。
ここでのミソは、合格でもそれなりの方向で記事や番組が作れるのだが、「不合格」の方が格段にやりやすいし儲けやすいし読者視聴者に分かりやすく内容を構築できるという事だ。需要もそれなりになると仮定すれば、正に鉱脈のようなモノだ。俺が思うに、何万人という人が「不合格」を願っていたと思う。今頃ウシシとほくそ笑んでいる。「忠臣蔵」とか「勧進帳」みたいに最早多くが待っている筋道が出来上がってしまっている。
なぜこうなってしまったのか分からないが、1つは件の彼が(実際どうなのかは知らないが)「俺たちはこれから自由に自分たちで迷惑かけずに立派にやってみせるから、うるさい事言わずに黙って見ていてくれ」みたいな態度に思われてしまい、結局「日本的な」対処や考え方を(実際どうかは知らんが)無視したように見えたという事だ。それでも実力社会、自由な社会と標榜されている国で一応成果を上げていけば結局は認められるのだが、不合格だと分かりやすいスキを作ってしまう。これから散々メディアは叩くんだろうが、俺は半年後に試験があるんだからどうってことはないのに…と思ってしまう。だって諦めなければ長い時間かかるかもしれないがいつかは合格するだろう。一旦ビザが切れたって特段致命的でもないしそれからまた就職先を探せば良い。
NPBは現在関西のある球団の低勝率が話題になっていてそこの監督の体調などが心配されているが、俺は余程彼の方がメディアから叩かれて参ってしまわないかと心配だ。どうだろうか。杞憂か。